意図せず表現や文章が似通ったりすることについて

意図せず表現や文章が似通ったりすることについて(酷似はほぼ意図的) ブログ運営記録

「パクリ記事に限りなく近い何か」について考えてみる

普段からよく訪問するサイトの記事、ニュース記事など、様々なシーンで情報に触れた時に、いわゆるパクリだと思われるものについて考えてみると、そもそも「パクられ元の記事」が本当のソースなのかなんて記事を書いた当人ですらわからないことがある。

例えば、当ブログでも頻繁に登場する「行動する」ことについて、体験に基づき文体化して、自分なりに昇華した考えを記事にまとめても、それが普段の何気ない会話の中で人づてに聞いた話を記憶していた情報が浮かび上がってきたり、ネット上で調べてえた情報の記憶であったりするわけだ。

そういった類の情報が自分という器の中に一度一つにまとまる。そして、現時点でボク自身が理解している語彙、表現力の幅の範囲内で微妙に少しずつ違う、でもほとんど似通ってくる情報を伝えるための文章がアウトプットされる。

それは、元とする文章を横目に見つつ、一部分の言葉を別の類似する言葉に書き換え、考え方のアプローチの手順を入れかえたり、そういった小細工をせずに2時間も3時間も書いては消してを繰り返してやっと書き上げたオリジナルと自負する記事であっても、読者の多いブログに同様の内容の記事が上がれば、もはや人知れぬブログの記事はパクリといわれるかもしれない。

結局のところ、似通った内容の記事があった場合に、パクリなのかパクラれなのかの話になるとき、たくさんの人の共感を得られたのがどっちの記事なのか、そこに尽きるのだと思う。

同様規模に大きいブログ同士での話であれば、それぞれに多数の読者がおり公開されるタイミングもはっきりわかるだろうけれど。

しかしながら、それなりの規模を運営されているブログの投稿記事は、本筋は同じ内容を伝えていてにもかかわらず、書き手のイマジネーションや表現、切り口の角度、書き方や語り口調で、まるっきり違う印象を受けるものであって、大そう感心してしまう。

体験して伝えているものであれば、いつか必ずその人自らが体験したからこそ湧き出る表現、言い回しがあるはずだし、説得力がうまれる。それを文章にして伝えられるかについては、文章力に関係してくるのだと思う。

あえて自分の言葉で伝えたいことがあるなら、引用を取り入れればいい

ボクは、左から右だけのパクリについては悲観的だが、印象に残った言葉や文章については、引用として使い、広く知ってもらいたいと考えている。

それは、ボクのこれまでの経験の中で振り返ってみて、実は世間一般的にはすごく有名な言葉だったけれど、ボクの世界の中にはこれまで存在しなかった言葉はたくさんある。そういう流れの中でであった言葉が素晴らしい出会いであったりすることもある。

逆の立場に立ったとき、一見「有名すぎでそんな情報誰が欲しがるの??」と考える情報であっても、ほかの誰かにとっては有名でないこともあるし、触れることで価値のある情報提供になることがある。ボクが実際に体験したことがある分、自信を持って言える。

素敵なブログの記事があれば、引用して紹介させてもらえばいいし、それに対する独自見解を書いてみるのもいい。考えることは自由だし、道徳的な判断さえできれば自由にできるのが今の時代だ。

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